8月だからやりたい~兵籍簿の閲覧と取り寄せ方法のご紹介

実際の兵籍簿写し人生を楽しむ
実際の兵籍簿写し
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8月は終戦記念日もあることで、通常より家族のことについて考える機会が多いかもしれません。
祖父や親せきの戦争の記録を取り寄せてみたいと思ったことありませんか?

実際に兵籍簿の写しを取り寄せてみましたので、 今回はどのように兵籍簿を取り寄せたかをご紹介いたします。

祖父は生まれも育ちも山口県萩市、役所に記録が残っているかどうかを確認するところから開始です。

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兵籍簿取り寄せ方

市役所に電話で担当部署を確認する

私の場合は、祖父の本籍地が当時と変わっていなかったため、市役所に連絡をすればすぐに申請のやり方を教えてくれました。引っ越しをしていたりするとまずそこからたどる必要があるため、最初に終戦当時の本籍地の戸籍謄本までさかのぼる必要があります。

請求できる人は大抵の役所では3親等以内の親族が多いようですが、これも管轄の役所によって違うようなので、電話で確認する必要があります。

陸軍か海軍か、そして所属部署の連隊名がわかっているほうが話が早いです。親や親せきに聞いて把握できるようなら聞き取りしておいたほうが楽です。海軍の場合は、兵籍簿は厚生労働省が保管しているそうなので、厚生労働省に確認することになります。

私は、祖父の本籍地、所属部隊の連隊名を把握していたので、萩市役所に電話して、兵籍簿を送付してもらえる担当部署を聞きました。

山口県健康福祉部
長寿社会課 援護班 

こちらに電話をして、必要となる書類を確認しました。

兵籍簿は必ずしも役所に残っていない場合もあるので、 電話でまず兵籍簿の有無を確認してから申請することとなります。
幸いにも祖父が所属していた歩兵第42連隊は、古くは奇兵隊からの流れをくむ連隊のため詳細な記録が残っていました。

歩兵42連隊(ほへいだい42れんたい、歩兵第四十二聯隊)は、大日本帝国陸軍連隊のひとつ。日清戦争後の1896年(明治29年)に広島で編成、編成後衛戍地山口に移す。1898年(明治31年)3月24日軍旗授与。所属師団は第5師団太平洋戦争時の通称号は「鯉5175」。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
県内にあった駐屯地を出発する42連隊
県内にあった駐屯地を出発する42連隊

この写真に写っている駐屯地は、今では自衛隊山口駐屯地として使用されており、当時の面影を見ることができます。門の辺りはほぼそのまま残っています。

申請のための必要書類

必要書類

① 対象者の終戦当時の氏名及び本籍地がわかる戸籍謄本等の原本
  *第一歩はこれがわからないと、たどるのは大変となります。覚悟したほうがいいです。

② 対象者と申請者(私)との続柄が確認できる戸籍謄本の原本
  *この戸籍謄本の原本も、父方の祖父でしたので苗字が一緒の時期があったため、手間はあまりかかりませんでした。母方の祖父だと苗字が同じだった時期がないため、取り寄せる書類が増えることになります。

③ 私の本人確認の写し(運転免許証など)

④ 返信用の切手 84円分の切手
  *戸籍謄本の原本の返送を希望する場合は、その旨申し出て、返送用の切手代が余分にかかります。いくら位追加になるかは親切にも教えてもらえます。

⑤ 兵籍簿等閲覧等申請書
  *記入例とともに用紙をいただけました。申請理由と閲覧事項を記入する用紙です。申請理由は、「兵籍を確認し、後世に引き継ぐため」と、例文通りに記入しました。

少し苦労するのは、2点と思われ、
当時の氏名や本籍地(予想以上に、養子などで性が違ったり、当時の本籍地が違ったり、子孫には知らない経緯がある場合があるようです。)親せきなどに確認する必要がでてくる。
・兵籍簿の本人と申請する自分の関係性を証明する書類の準備

この2点がクリアできれば、申請から1週間程度で兵籍簿の写しは入手できました。役所の混雑具合によるようですので、気長に待つしかないです。

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入手したのは2書類

陸軍兵籍簿コピー2ページ

兵籍簿に記載の情報はわずかでした。
手書きで書かれた「甲」の文字、兵種:歩兵、本籍地や氏名、履歴としてほんの数行のみでした。

これだけだと、がっかりするほどのわずかな記録です。

陸軍戦時名簿2ページ

陸軍戦時名簿は軍歴が全て書かれた詳細な内容でした。入隊から除隊までのすべての記録が記載されています。階級などものせられていて、祖父の場合「不志願現役」と記載があり、興味深かったです。

手書きの丁寧に書かれた内容で、昔の人は字が綺麗だったのだと思いました。旧漢字や中国の地名など読み解くのが難しい内容です。

祖父がどのように級を上げていったのかものっています。
歩兵二等兵から始まり、一等兵、上等兵、兵長、除隊の直前に伍長になっていました。

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祖父の戦歴(一部)

以下に少しだけ、祖父の戦歴を記載します。
昭和15年、21歳の祖父はすでに九州で働いていましたが、故郷の山口県で召集されました。

戦歴

昭和15年4月10日 現役兵として歩兵第42連隊補充隊第5中隊に入営

7月13日 入営から13日まで同隊補充隊にありて勤務に従事
7月14日 同隊補充交代員として屯営出発
7月15日 宇品港出発
7月25日 広東省に上陸

8月17日 広西省寧明県到着
8月18日 歩兵第42連隊第七中隊に編入
8月19日 龍州付近の警備広西省における次期準備 

9月5日 マラリアにより夏石椰第五師団第四野戦病院に入院
9月13日 明江第五師団第一野戦病院に転送入院
9月20日 北江第五師団第三野戦病院患者療養所に入院
9月22日 呉村患者療養所に入院
9月24日 野戦予備病院第45班入院
9月29日 現地出発

10月 一等兵に昇格
10月20日 黄浦港着 上田部隊に入院

11月1日 パラチフスに軽症
11月14日 川崎部隊入院

昭和16年6月2日 治癒退院
6月12日 黄浦港出発 上海港上陸
6月19日 原隊復帰(警備にあたる)

 

身長も小柄で体の弱かった祖父は、軍隊に入隊してからマラリアそしてチフスにかかり、最初の1年間はほとんど入院をして過ごしていたことがわかります。

祖父はそのあと、タイ方面に回されてマレー作戦に参加しています。
またマラリアにかかって野戦病院に入院をしています。

昭和17年夏、シンガポールにいた祖父に、やっと復員下令がでます。しかし、恐らく戦況悪化のためでしょうが、42連隊に復員中止の命令がくだり、祖父の日本帰国はできませんでした。

昭和18年ニューギニア作戦に参加、そのあとも東南アジア諸国をあちこち転戦したようです。
昭和20年8月、終戦を南の島で迎えています。

しかし祖父の戦争はまだ終わりません。その後も南の島で現地自活だったのか、連合国軍による抑留があったのか詳細はわかりませんが、現地での生活を送ります。
祖父が帰国の途についたのは、翌年の昭和21年5月、そして6月10日和歌山田辺港に上陸して復員完了となっています。

まとめ

兵籍簿の取り寄せには、該当の市役所などに電話確認をしながら進めることになります。
丁寧に教えてくれるので、心配はありません。

思ったような記録が残っていなかったりすることもあるかもしれませんが、世代が進んでいくとますます取り寄せが難しくなることが想像できますので、思い立ったときにやってみるのが一番です。

祖父から当時の話はほとんど聞いたことがなかったのですが、これで祖父が英語やシンガポール語が話せたわけがわかりました!

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